2026年8月19日水曜日

生成AIとクリエイターの矜持

  僕は原則として、作品の制作に生成AIは使わない。補助としても使わないし、そもそも生成AIを使う事それ自体がない。

 使った事はある。2021年ごろだったと思うが、「AIのべりすと」というサービスを、ジョークツールとして面白がって文章を吐き出させて遊んでいた。その過程で、自分の頭で考えたほうがより自由に小説を書けるのではないか?と思い始め、人生初の小説を執筆した。そこで初めて、自分に小説を書けることがわかった。

 その後すぐに生成AIとは従来型AIと異なり、他者の創造物、成果物を無断で(実質的に)複製するシステムだと理解すると、反対の立場を取るようになる。皮肉なことに、生成AIを利用したことが、逆に生身の作家としての自分を知ることになったのだ。

 生成AIは描画ツールではない。高度な自動複製装置だ。生身のアーティストが、誰かの作品を手本に描くこととは、似て非なるものだ。生成AIにも高度なプロンプトの練り直しが何度も求められる、したがって創造的活動だ、とする主張もあるが、それは窃盗犯が家宅侵入のために努力する、ヤクザが法の網をかいくぐるために法を学ぶのと同じで、努力ではあっても賞賛には値しない。

 言いたいことは山程あるが、生成AIの仕組みを知ってからは、表現者の矜持として、生成AIを意識的に利用することはできなくなった。僕が生成AIの存在意義を認められる可能性があるとすれば、身障者のためのサイボーグ技術だとか、社会的に意義を認められる分野だけだ。それとて、ひょっとしたら従来型AIで間に合うかも知れない。少なくとも、今晩の夕飯は何にするか決めるため、あるいはアダルト動画を生成するために、環境を破壊してまでデータセンターを稼働させなければならない、とは思わない。エネルギー企業とIT企業が儲かるため、あるいは超大国がよその国からデータをかき集めるために、ありもしない需要を喚起しているだけではないのか。

 そうは言ってもすでに世界で生成AI、エージェントAI、あるいは次世代のAIシステムが定着しつつあるではないか、それに異を唱えるのか、と言われそうだが、まったくそのとおりだ。僕は世界の在り方に異を唱えている。世界が正しい保証はどこにもない。かつて世界中で共産革命が猛威を振るったように、世界規模で間違った方向に突き進むのが人類だ。

 このままならいつか、人工知能によって大変な事態が引き起こされるだろう。それに対する警告というよりは皮肉を込めて、僕はいまひとつのSF小説作品を執筆している。願わくばその予言は外れてほしいが、事実は小説より酷い結果になるかも知れない。

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